オーボエ奏者 藤井貴宏ウェブサイトTAKAHIRO FUJII

プロフィール

藤井貴宏(オーボエ奏者)

1980年鎌倉に生まれ、その後高校時代まで長野で育つ。6歳から合唱、1 3歳からオーボエを始める。県立須坂高等学校卒業、東京藝術大学音楽学部器楽科オーボエ専攻卒業。オーボエを和久井仁、 小畑善昭、松山敦子、小林裕の各氏に、またバロックオーボエを三宮正満、 尾崎温子の各氏に、指揮を村方千之氏に師事。
`00年ジョルジ・エネスコフィルハーモニー交響楽団(ルーマニア)に招かれ同地にて協奏曲を共演。 大学在学中から東京フィルハーモニー交響楽団ほか、群響、京響、大フィル等に客演首席として招かれた。
`01年シーズンはバンドネオン奏者の小松亮太氏率いるオルケスタティピカにてソリストとして、`04年にはバッハコレギウムジャパンの定期演奏会および録音プロジェクトに参加した。
`05,`10年は東京佼成ウインドオーケストラの アジア・ヨーロッパ公演にソロ・イングリッシュホルン奏者として参加、定期演奏会を中心に定期的に参加している。
`05~ `08年兵庫芸術文化センター管弦楽団オーボエ奏者を務め、`08年の定期演奏会ではソリストとして協奏曲を演奏、現在は同楽団アソシエイトプレイヤー。室内楽ではT.コープマン、M.トルコビッチ、安永徹、工藤重典、H.シェレンベルガー氏等と共演。 また自主企画「スウィートクラシック(Sweet Classic)」をたちあげこれまでに全国各地で演奏会を開催、2011年にはピアニストのM.ファイト氏と第10回の記念リサイタルツアーを開催し好評を博した。
`09年H.シェレンベルガー氏の招きで渡独、氏の下で研鑽を積む。ヤコブスプラッツオーケストラミュンヘン、ローゼンハイム音楽協会オーケストラ、エルサレム交響楽団(イスラエル)、またチロル音楽祭やバチカン国際音楽祭等に参加、アンサンブルest、アンサンブルアルカディア、またアンサンブル・ハンスベルガ―のメンバーとして南ドイツ各地を中心に演奏活動を行っている。ドイツ ミュンヘン在住。

藤井貴宏のエッセイ「僕オーボエ人生」

第一話~なぜ「オーボエ」そして「音楽家」なのか?

♪幼少の頃は何でも大好き、その中で。。。

良くも悪くも小さい頃から遊ぶことが大好き。砂遊びから始まって、鬼ごっこ、~ごっこ、ブロック遊びにパズル、野球、バドミントン、合唱、ピアノ、釣り、テレビゲーム、何にも興味があって、また両親もできる範囲でやりたいと思うことは何でもやらせてくれました。特に6歳から始めた「合唱」はとても毎回楽しみにしていました。地元の大作曲家「中山晋平」を記念して当時創設された「晋平少年少女合唱団」。その指導者として「山本昇先生」がいらっしゃいました。歌うことの楽しさ、聞いている人へ楽しさを伝えるために、という氏の音楽的指導が子供ながらにとても楽しかったのです。その一方、毎日暗くなるまでバドミントンをし、夜遅くまで親に内緒でテレビゲームをし・・・ごくごく普通の生活を送っていました。
そんな沢山の経験をし、中学生で選ぼうとした部活は「バレーボール部」。母が学生時代にやっていたというのも少々関係あるかもしれませんが、入学前から部活の見学に行くなど、とにかく入部する気満々でいました。同時に当時持ち合わせていた夢は「外科医」。弱っている人を「治したい」という漠然とした気持ちを小学校から持ち続けていたのをよく覚えています。基本的に自分より他の人に「何かしてあげたい」というのがあったのも影響していた気がします。そんな私が小学校の頃大好きだったのが「お医者さんごっこ」でした(笑)。しかしその夢はあっけなく崩れ去ります。中学校に入学するや否や、担任は吹奏楽部の顧問をしていて、私が合唱を一生懸命やっていたのを知っていたのです。吹奏楽部は当時学校の中で一番時間を割いて一生懸命やっている部活だったので「とんでもない、絶対に入らない」と決めていたのですが、逃げ切れず担任に連れて行かれ見学・・・そこで3年生の先輩の「オーボエ」の生の音を初めて聞いたのです。「素敵な音」だったのをよく覚えています。家に帰ってからもその感動は尾を引きづり、内心「この部活に入ったら医者の勉強どころじゃないよなぁ・・・でも素敵だったな」と揺れ動き、それからはピアノの先生に相談したりして迷い考え、結論「やってみよう」ということに決めたのです。意志が弱いのでお医者様の夢はここで終わり、「オーボエを吹く」ということに今度は執着し始めたのです。が、当時新一年生30人近くが入部希望を出し、そのうちなんと約10人が「オーボエ」という希望をだしてきたのです(ちょっと異例でした、この状況。それだけ先輩の音が魅力的だったのだと思います)。それでも「他の人に譲るわけにはいかない」と、他の希望者に「どうしてもやりたいからほかに移ってもらえないかなぁ?」とお願いして回り、最終的に私一人が、晴れてオーボエ担当となったわけです。